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元ロッテ伊藤義弘さんバイク事故で死去 2010年日本シリーズ胴上げ投手・バット事故乗り越え教育者に

📰 訃報


2025年10月6日午後、福岡市城南区でバイク事故が発生し、43歳の男性が亡くなりました。

その男性の名前は伊藤義弘さん。プロ野球ファンなら、その名前を聞いて「あの胴上げ投手の...」と思い出す方も多いでしょう。

2010年11月7日、ナゴヤドームで行われた日本シリーズ第7戦。延長12回、マウンドで両手を高く突き上げた伊藤さんの姿は、「史上最大の下剋上」として今も語り継がれています。

あれから15年。教育者として第二の人生を歩んでいた伊藤さんを、突然の事故が襲いました。

2010年日本シリーズで両手を突き上げる野球選手のイメージ

2010年日本シリーズで両手を突き上げる野球選手のイメージ



 

⚠️ 【速報】元ロッテ・伊藤義弘さんが福岡でバイク事故死 - 何が起きたのか

2025年10月6日午後2時過ぎ、福岡市城南区鳥飼の交差点で、タクシーとバイクが衝突する事故が発生しました。

バイクを運転していたのは、特別支援学校の臨時講師として働いていた伊藤義弘さん(43)。伊藤さんは福岡市内の病院に運ばれましたが、約2時間後に死亡が確認されました。

🚗 事故の概要

タクシーを運転していた75歳の男性も顔から出血するなどして病院に搬送されましたが、意識はあるとのことです。タクシーに乗客はいませんでした。

 

警察によると、現場は信号機のある見通しの良い交差点。バイクは大破し、タクシーは右側が大きく破損していたといいます。

警察は信号の状況など、事故当時の詳しい状況を調べています。FBS福岡放送の報道では、出合い頭の衝突と報じられています。


 

 

 

⚾ 伊藤義弘さんとは - 2010年日本シリーズ「史上最大の下剋上」の胴上げ投手

伊藤義弘さんは、1982年6月2日に福岡市早良区で生まれました

実は伊藤さん、小学生の頃はバスケットボール少年でした。『SLAM DUNK』を読んで「バスケがやりたい!」と思っていたんです。

🏀 意外な事実

でも通っていた小学校にはバスケ部がなく、仕方なくソフトボール部に。中学でバスケ部に入ろうとしたら、両親から「野球部に入らないなら勘当する」と言われてしまいます。

 

こうして野球の道に進んだ伊藤さん。東福岡高校では2年生で甲子園に出場し、國學院大學を経てJR東海の社会人野球でプレーしました。

そして2007年、25歳でプロ野球・千葉ロッテマリーンズに入団。遅咲きの選手でしたが、試合の途中から投げる「中継ぎ投手」として頭角を現します。


🏆 2010年、あの感動の日本シリーズ

伊藤さんの名前が球史に刻まれたのは、2010年の日本シリーズでした。

千葉ロッテは、レギュラーシーズンを3位で終了。普通なら日本シリーズに出場できない順位です。でも、その年から始まったクライマックスシリーズ(プレーオフ)を勝ち上がり、「3位から日本一を目指す」という前代未聞の挑戦が始まりました。

⚡ 史上最大の下剋上

対戦相手は、セ・リーグ優勝の中日ドラゴンズ。両チームとも一歩も譲らない激戦が続き、第6戦は延長15回引き分け、5時間43分という日本シリーズ史上最長の試合になりました。

 

そして迎えた第7戦。2010年11月7日、ナゴヤドーム。

7対7の同点で迎えた延長12回、伊藤さんは11回から登板していました。通常、プロ野球の試合は9回で終わりますが、同点の場合は延長戦になります。この日は延長12回まで続く、息詰まる展開でした。

12回の表、ロッテが岡田幸文選手のタイムリーで8対7と勝ち越します。

そして12回の裏、最後の守り。マウンドに立っていたのは伊藤さんでした。


🎯 歴史的瞬間

中日打線を3人で抑えた瞬間、伊藤さんは両手を高く突き上げます。「プロ野球史上最大の下剋上」が実現した瞬間です。

延長11回から2イニングを投げ、無失点。伊藤さんは「胴上げ投手」として、チームの日本一に貢献しました。

 

実はこの試合、伊藤さんは投手なのに打席にも立ち、犠打(バントで走者を進める作戦)も成功させていたんです。投打にわたる活躍でした。

この年、伊藤さんはシーズン65試合に登板。これはリーグでもトップクラスの登板数で、チームから絶大な信頼を受けていたことがわかります。


 

 

 

💔 2011年の悲劇 - 陽岱鋼の折れたバットが膝に刺さる事故

日本シリーズの英雄として迎えた2011年シーズン。

しかし、この年の9月1日、伊藤さんを大きな不運が襲います。

日本ハム戦での出来事でした。伊藤さんは相手打者の陽岱鋼選手を遊撃フライに打ち取ります。「よし、アウト!」と思った瞬間、折れたバットが伊藤さんの左膝の内側に突き刺さったのです。

⚠️ 衝撃的な事故

陽選手がフルスイングで打った瞬間にバットが折れ、その鋭い破片が飛んできました。伊藤さんは打球を目で追っていたため、バットに気づくのが遅れました。

チームメイトに抱えられてベンチに戻った伊藤さんのユニフォームには、大量の血が付着していました。

 

病院での診断は「左すね内側の打撲と挫創」。挫創とは、傷口が開いた状態のこと。相当深い傷だったようです。


⛓️ バット事故から始まった故障の連鎖

このバット事故が、伊藤さんの選手生命を大きく縮めることになります。

左膝をかばって投げるうちに、投球フォームが崩れてしまいました。身体のバランスが崩れると、他の部分に負担がかかります。

その結果、右肩、右肘、脇腹、腰と、次々に故障が発生。特に腰の痛みは深刻で、診察した医師からは「手術しようにも、メスで開けてみないとどうなるか分からないレベル」と言われるほどでした。

2013年には右肘の手術を受けましたが、以前のような投球は戻りませんでした。

2016年シーズン、伊藤さんは一度も一軍のマウンドに立つことができませんでした。

そして10月、球団から戦力外通告を受けます。


 

 

 

🎓 現役引退から教育者へ - 伊藤さんの第二の人生

戦力外通告を受けた伊藤さんは、トライアウト(球団との契約を目指す選手のテスト)に参加します。さらに読売ジャイアンツの入団テストも受けましたが、不合格。

34歳の秋、伊藤さんは現役引退を決断しました。

でも、伊藤さんは落ち込んでいませんでした。実は、プロ入り直後から「引退後の人生」を考えていたんです。


💻 パソコン教室から大学院へ

引退後、伊藤さんはパソコン教室に通い始めました。毎日5時間、ExcelやWord、PowerPointの使い方を必死に勉強。

プロ野球選手として活躍していた伊藤さんが、一から社会人としてのスキルを学び直す姿は、多くの人に感銘を与えました。

その後、日本体育大学の大学院に進学。スポーツ心理学やコーチングを学び、修士号を取得します。

📚 大学院での研究

研究テーマは「プロ野球選手が求める監督像の差異」。なんと、12球団の現役選手全員にアンケートを実施するという大規模な研究でした。

 

実はこの研究には、伊藤さんの強い思いがありました。

現役時代、千葉ロッテの監督だったボビー・バレンタイン監督から大きな影響を受けていたんです。

「選手が失敗しても怒らない」「次にチャンスを与える」というバレンタイン監督の指導法。伊藤さんはこれを「野球が楽しいと思えた」と振り返っています。

こうした経験から、「選手に考えさせる指導法」に強い関心を持ち、教育者を目指すようになりました。


⚾ 母校・東福岡高校の野球部監督に

2020年、伊藤さんは母校の東福岡高等学校で野球部監督に就任します。

東福岡高校は春2回、夏4回の甲子園出場を誇る名門校。伊藤さん自身も東福岡高校出身で、2年生の時に甲子園に出場していました。

監督として、バレンタイン監督から学んだ「選手が自発的に練習する環境づくり」を実践。「モチベーションが高いと自発的に練習する。選手が育つ環境を作りたい」と西日本新聞のインタビューで語っていました。

そして2025年10月6日時点では、特別支援学校の臨時講師として働いていました。東福岡高校監督から特別支援学校講師への経緯については、現時点では詳しい情報が確認できていません。

教育者として、新たな道を歩んでいた伊藤さん。その矢先の事故でした。


 

 

 

🚦 事故の状況と今後の調査

今回の事故が起きたのは、福岡市城南区鳥飼5丁目の交差点。信号機が設置された、見通しの良い場所でした。

警察の発表によると、タクシーが交差点を直進中、右側から直進してきたバイクと衝突したとのこと。

🔍 不可解な点

見通しの良い交差点で、両方とも直進中に衝突したということは、どちらかが信号を見落としていた可能性があります。

 

バイクは大破し、タクシーの右側も大きく破損していたことから、相当な衝撃だったことがうかがえます。

警察は、信号の状況や事故当時の詳しい状況について調査を続けています。


 

 

 

📝 まとめ

2010年11月7日、ナゴヤドームのマウンドで両手を突き上げた伊藤義弘さん。

翌年のバット事故という不運に見舞われながらも、教育者として第二の人生を懸命に歩んでいました。

福岡の交差点で起きた突然の事故は、43歳という若さでの別れとなりました。

    • 元千葉ロッテマリーンズの投手として2008年から2016年まで活躍

    • 2010年日本シリーズ第7戦の「胴上げ投手」として球史に名を刻む

    • 2011年のバット事故から故障連鎖、2016年に引退

    • 引退後は日体大大学院で修士号を取得、2020年から東福岡高校野球部監督

  • 2025年10月6日、福岡市内でバイク事故により死去

 

プロ野球ファンだけでなく、教え子たちにとっても、伊藤さんの存在は大きなものだったでしょう。

「選手に考えさせる指導」「失敗しても次のチャンスを与える」というバレンタイン監督から受け継いだ教育哲学。それは、伊藤さんが教え子たちに伝えようとしていたものでした。

ご冥福をお祈りいたします。


 

❓ よくある質問(FAQ)

Q1. 伊藤義弘さんはどんな野球選手でしたか?

2010年日本シリーズ第7戦で胴上げ投手となり、リーグ3位から日本一という「史上最大の下剋上」を実現した千葉ロッテマリーンズの中継ぎ投手です。2008年から2016年まで活躍しました。

Q2. バット事故とは何があったのですか?

2011年9月1日の日本ハム戦で、陽岱鋼選手を打ち取った直後、折れたバットが伊藤さんの左膝に刺さる事故が発生。この事故が原因で投球フォームが崩れ、右肩、右肘、腰など全身の故障連鎖を引き起こしました。

Q3. 引退後はどのような活動をしていましたか?

日本体育大学の大学院で修士号を取得後、2020年から母校の東福岡高校で野球部監督に就任。ボビー・バレンタイン監督から学んだ「選手が自発的に練習する環境づくり」を実践し、教育者として活躍していました。

Q4. 今回の事故はどこで起きましたか?

2025年10月6日午後2時過ぎ、福岡市城南区鳥飼の交差点で発生。信号機のある見通しの良い交差点で、タクシーとバイクが出合い頭に衝突しました。警察が詳しい状況を調査中です。

 

 

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