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風船おじさん事件から33年〜借金5億円で決行、最後の言葉と行方不明の真相

📅 今日2025年11月23日は、風船おじさんが空へ消えた日からちょうど33年目です。

1992年11月23日、一人の男性が琵琶湖から風船に乗って空へ消えていきました。
目指すはアメリカ大陸。しかし、彼はそのまま行方不明となり、今日で33年─今も消息は不明のままです。

「風船で太平洋を渡る」なんて、まるで童話の世界のような話ですよね?
でも実は、これは本当にあった事件なんです。

平成を代表する未解決事件のひとつ、「風船おじさん事件」。
今日2025年11月23日は、ちょうどあの日から33年目にあたります。

風船おじさん事件から33年〜借金5億円で決行、最後の言葉と行方不明の真相

風船おじさん事件から33年〜借金5億円で決行、最後の言葉と行方不明の真相




 

風船おじさんとは?鈴木嘉和氏の正体と事件の概要

結論:風船おじさんとは、1992年11月23日に滋賀県・琵琶湖から風船で太平洋横断に挑み、行方不明となった鈴木嘉和(すずき・よしかず)氏(当時52歳)のことです。今日で事件発生から33年、今も彼の消息は不明のままとなっています。

鈴木氏の経歴とファンタジー号

Wikipediaの情報によれば、鈴木氏は1940年生まれのピアノ調律師でした。
東京都でピアノ調律師の家に生まれ、国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員としてピアノ調律業を営んでいたんです。

1992年11月23日午後4時20分頃、鈴木氏は「ファンタジー号」と名付けられた木製のゴンドラに乗って琵琶湖湖畔から離陸しました。

ゴンドラには大量のヘリウム風船が取り付けられており、まさに映画のワンシーンのような光景だったといいます。


 

 

 

「風船おじさん」という愛称の誕生

この衝撃的な出来事は、当時のテレビのワイドショーで連日トップニュース扱いで報じられました。
貴乃花と宮沢りえの婚約報道と並んで、毎日のように取り上げられたんです。

フジテレビの『タイム3』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『モーニングEye』が「無謀・風船男太平洋横断決行」と報道し、この時に「風船おじさん」というニックネームが定着しました。

💡 実は:今日11月23日が、風船おじさんが空へ消えた日からちょうど33年目にあたります。節目の日に、改めてこの事件を振り返ってみましょう。

しかし、なぜ彼はこんな無謀な挑戦をしたのでしょうか?
その背景には、億単位の借金という切実な事情がありました。


なぜ風船で太平洋横断?借金返済という切実な動機

結論:鈴木氏が風船での太平洋横断に挑んだ最大の理由は、億単位の借金返済でした。成功すればビジネスチャンスが広がり、一発逆転できると考えたのです。

「夢の冒険」というイメージを持つ人も多いかもしれません。
でも実際は、もっと切実で、もっと人間臭い理由があったんです。


ピアノ調律師から起業家へ、そして借金地獄へ

1984年、当時44歳だった鈴木氏は音楽教材販売会社「ミュージック・アンサンブル」を起業しました。
バブル経済の波に乗ろうとしたんです。

ピアノ練習用の「マイナスワンテープ」という教材を販売していましたが、1986年に銀座で音楽サロンを開業したことをきっかけに、麻雀荘や飲食店など多角経営に乗り出します。

しかし、どの事業もうまくいきませんでした。


 

 

 

横浜博覧会での大失敗と奇行

1989年3月に開幕した横浜博覧会(YES'89)に、鈴木氏は一発逆転を狙って複数のテナントを出店しました。
バブル景気の最中で、銀行融資も比較的容易に受けられた時期です。

ところが、会場内の立地が悪く、経営は深刻な状態に陥ってしまいます。

そして同年7月30日、鈴木氏は突飛な行動に出ました。
約30メートルの鉄塔によじ登り、博覧会のマスコット「ブルアちゃん」の着ぐるみを着て7時間にわたり籠城したんです。

会場内の動線改善を博覧会協会に訴えるためでした。
この事件は新聞でも大きく取り上げられ、「横浜博覧会立て籠もり事件」として報道されました。

今なら即時退場処分になりそうな行為ですが、当時は厳重注意のみで営業継続が認められたといいます。


億単位の借金と会社倒産

横浜博でのビジネスは結局うまくいかず、1990年には会社が倒産。
億単位(一部報道では4〜5億円とも)の借金が残りました。

窮地に追い込まれた鈴木氏が、一発逆転を狙って計画したのが、風船による太平洋横断だったんです。


「環境保全」という建前

⚠️ 実は:「環境保全を訴えるため」というのは建前で、本当の目的は巨額の借金返済だったのです。

鈴木氏は同志社大学工学部の三輪茂雄教授と交流を持っていました。
三輪教授は「鳴き砂」(上を歩くと「キュッキュッ」と音を立てる砂)の保護運動を展開していた「鳴き砂博士」として知られる人物です。

鈴木氏はこの運動に関心を示し、「環境保全を訴えるための飛行」という大義名分を掲げるようになりました。
当初の計画は、鳴き砂のある島根県仁摩町(現・大田市)をスタート地点とし、ジェット気流に乗って約40時間でアメリカ・ネバダ州を目指すというものでした。

しかし実際には、冒険成功による注目→メディア露出→ビジネスチャンス→借金返済、という筋書きを描いていたと考えられています。

では、鈴木氏は具体的にどのような方法で太平洋を渡ろうとしたのでしょうか?
ファンタジー号の装備と仕組みを見ていきましょう。


 

 

 

ファンタジー号の装備と飛行の仕組み

結論:ファンタジー号は、約2メートル四方・深さ1メートルの木製ゴンドラにヘリウム風船32個を取り付けた装置でした。ジェット気流に乗れば40時間でアメリカに到達できる─これが鈴木氏の計画でした。

桶職人が作った檜材のゴンドラ

ゴンドラは桶職人に依頼して檜材で製作されました。
約2メートル四方なので、なんとか体を横たえることができるサイズです。

深さは1メートルで、箱型の構造になっていました。


風船の構成と変更

当初の計画では、アドバルーンの専門会社が手がける直径6メートルの主力ビニール風船を6個、補助風船を含めて計32個を装着する予定でした。

しかし実際の本番では、主力風船は4個にスペックダウンしていたことが確認されています。


バラストには沖縄の焼酎200本

浮力調整のためのバラスト(重り)には、低温でも凍らない沖縄の焼酎が用いられました。
なんと200本も積んでいたんです。

通常、風船の飛行では砂袋などを使いますが、鈴木氏は焼酎を選びました。
理由は寒さに強いからです。


装備品リスト

各種報道によれば、ゴンドラには次のような装備が積み込まれていたとされています:

  • 酸素ボンベ(48時間分)
  • 食料(カロリーメイトなど、最小限)
  • 緯度経度測定器
  • 高度計、速度計
  • 海難救助信号機
  • ビデオカメラ
  • 無線緊急発信装置
  • レーダー反射板
  • 携帯電話
  • 地図
  • パラシュート
  • ハーネス、ヘルメット
  • 酸素マスク、サングラス
  • 防寒着:スキーウェア
  • 毛布5枚

 

鈴木氏は断食の訓練をしており、食料は最小限としました。
また、報道されたリストに飲料水は含まれていません。


 

 

 

1992年4月の多摩川テスト飛行

本番の約7ヶ月前、1992年4月17日に東京都府中市の多摩川河川敷でテスト飛行を行っていました。

椅子にヘリウム風船4個を取り付けた装置で、当初は数百メートル程度の上昇を想定していました。
ところが、砂袋2つを落下させた結果、高度は想定を大きく上回る5,000メートル超に達したといいます。

降下時には、ライターの炎でロープを焼き切って風船を切断するという極めて危険な手段を使いました。
機体は最終的に東京都大田区の民家屋根に不時着し、鈴木氏は運よく軽傷で済みます。

この一件はメディアで大々的に報じられ、「ヘリウム風船不時着事件」として話題になりました。

ちなみに、不時着した民家には屋根の瓦やテレビのアンテナが壊れる被害がありましたが、鈴木氏からの謝罪も弁償もなかったそうです。


無許可ゲリラ飛行の決行

1992年11月23日、鈴木氏は琵琶湖湖畔で「ファンタジー号」の試験飛行を行うとして、支援者、三輪教授と同志社大の学生、地元新聞社通信局長、フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』のスタッフらを集めました。

運輸省(現・国土交通省)には届け出を出していましたが、認可されたのはあくまで地上に係留した状態での試験飛行のみでした。

機体はいったん120メートルまで上昇し、地上へ戻りました。
しかし午後4時20分頃、鈴木氏は「行ってきます」と言い残し、まさかの行動に出ます。
係留ロープを自ら外したんです。

なかなか高く浮上しなかったため、焼酎瓶200本と酸素ボンベを地上に投下。
するとゴンドラは急速に上昇を始めました。

⚠️ 実は:鈴木氏、離陸直後に浮力を稼ぐため酸素ボンベと焼酎瓶200本を地上に投棄してしまったのです。高度8,000メートルのデスゾーン(人が生きられない高さ)を目指すのに。

こうして、運輸省の許可がないままゲリラ的に計画が強行されました。
結局、出発地点は当初予定の島根ではなく、鳴き砂とは無関係の琵琶湖となりました。

その模様はテレビカメラに収録されており、のちにニュース番組などでも繰り返し放映されました。

しかし、この計画には致命的な欠陥が数多くありました。
専門家が指摘する問題点を見ていきましょう。


 

 

 

専門家が指摘する致命的な欠陥

結論:専門家によれば、ファンタジー号の計画は致命的な欠陥だらけでした。極寒・高山病・風船破裂・操縦不能─生還の可能性は極めて低かったのです。

装備の圧倒的不足

⚠️ 実は:防寒装備がスキーウェアと毛布5枚だけ。エベレスト級の高度を目指すのに、です。

鈴木氏の計画は「ジェット気流に乗る」という一点にありました。
ジェット気流が存在するのは、高度7,000〜12,000メートル付近です。

この高度はどれくらい過酷かというと、エベレストの山頂(標高8,848メートル)を超える領域なんです。
気温はマイナス40℃からマイナス60℃に達します。

毛布ではあまりに心もとない。
少なくとも、極地登山で用いられるような耐寒性の高いシュラフ(寝袋)や防寒装備を用意すべきでした。
鈴木氏の装備では凍傷リスクだけでなく、凍死リスクも極めて高かったのです。


デスゾーンという名の死の領域

登山の世界では高度8,000メートルを超える領域は「デスゾーン」と呼ばれ、酸素マスクなしで生存は困難とされています。

ところが鈴木氏は、浮力を稼ぐために酸素ボンベを投棄してしまいました。
また、平地から高度8,000メートルへ急激に上昇すれば、重度の急性高山病が急速に進行し、意識障害や呼吸困難に陥る危険があります。


休息の二律背反

ファンタジー号は2メートル四方なので、なんとか体を横たえることができました。
だが、低温下で眠れば凍死の危険があり、バランスが崩れ落下リスクが高まります。

かといって休息を取らなければ衰弱が進み、判断力も低下する。
この二律背反の状況が想定されました。


排泄問題と凍結

飛行中の排泄の困難さも十分に検討されていたかは不明です。
マイナス数十度の世界では排泄物はすぐに凍結します。


 

 

 

風船破裂の高リスク

風船の破裂リスクも極めて高かったのです。

高空では地上に比べて気圧が極端に低くなるため、地上でヘリウムを充填した風船は、上昇するにつれて内部のガスが膨張し、ビニール素材がそれに耐えきれず破裂する危険があります。

そして、極低温下ではビニールが硬化し、わずかな張力の変化でも裂けやすくなる。
風船の素材が破損しなくても、ヘリウムガス自体が分子レベルで少しずつ漏れ出すため、時間の経過とともに浮力が失われていきます。

実際、鈴木氏は離陸直後の電話で「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」と答えていました。


携帯電話の致命的限界

1992年当時の携帯電話の通信はアナログ方式であり、電波の届く範囲は限定的で、沿岸から離れると圏外になりやすかったのです。

さらに、もともとバッテリーの寿命が短く、電波の圏外や寒冷な環境ではさらにそれが顕著になりました。
鈴木氏が命綱として所持したのは衛星電話ではなく、通常の携帯電話だったと考えられています。

無線免許を取得しようとせず、通信手段として選んだのが携帯電話だったというのは、今から考えれば致命的な判断ミスでした。


操縦不能という根本的問題

そもそも、このファンタジー号には舵もなく、すべて風まかせでした。
北米方面に飛ぶとは限らないんです。

浮力を増すためのバラストの焼酎瓶は離陸時にすでに投棄されたため、上昇や下降を制御する手段は、風船を機体から外す、穴を開けてガスを抜く以外にほぼ存在せず、陸地や水面に軟着陸する術がありませんでした。


パラシュートの現実性

鈴木氏がパラシュートの訓練を受けていたという情報はありません。
不安定で極限状態の環境下で狭いゴンドラから正しい姿勢で飛び出し、開傘・操作・着地を安全に行うことも容易ではないことは明らかです。

つまり、この飛行計画には「安全な着陸の方法」そのものが欠けていたのです。


「到達」と「生還」は別問題

仮に鈴木氏が奇跡的に太平洋を横断し、北米大陸上空に到達したとしても、自らの位置を正確に把握することは事実上不可能に近い。

たとえ陸地を視認できたとしても、人のいる土地に降り立てる保証はありませんでした。
アメリカ本土では都市域は国土の一部に限られるし、アラスカ州やカナダでは大半が森林やツンドラ、山岳などの無人地帯だからです。

つまり、「アメリカに到達する」ことと「人のいる場所に辿り着く」ことはまったく別問題だったのです。

それでも鈴木氏は飛び立ちました。
そして運命の日、彼は家族に最後の言葉を残します。


 

 

 

最後の通信「心配しないでね」その後の消息

結論:「心配しないでね」─これが鈴木氏の最後の言葉でした。1992年11月25日朝、海上保安庁が洋上で確認しましたが、その後雲間に消え、以後誰も彼を見ていません。

離陸後の経過と家族への電話

鈴木氏は出発前、「もし太平洋横断を決行したら、マスコミが家に押しかけてくるだろう」と考え、家族を都内のホテルに宿泊させていました。
つまり、密かに本飛行を強行する意図を持っていたのです。

飛行直後、テレビ局スタッフが携帯電話で連絡を取ると、鈴木氏は「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」と応じました。

妻だった石塚由紀子氏の著書『風船おじさんの調律』によれば、夜の10時以降は1時間ごとに家族に電話が入ったといいます。

「風船の様子がおかしい」「思ったより高度が上がらない」「海に出た」「煙草を吸った」といった言葉を残しました。

携帯電話がつながるということは、それほど高くない空中を浮遊していたことを示しています。


最後の通信「スバラシイ朝焼けだ!」

💬 最後の言葉:
「スバラシイ朝焼けだ!きれいだよ」
「行けるところまで行くから、心配しないでね」

翌11月24日午前6時、鈴木氏は家族に最後の言葉を告げました。

これを最後に携帯電話は不通となりました。


緊急信号と海上保安庁の捜索

24日深夜から25日朝にかけて緊急信号が発信されました。

同日8時30分、海上保安庁の捜索機が宮城県・金華山沖東方約800キロメートルの洋上で飛行中の「ファンタジー号」を確認しました。
高度は約2,500メートルで、北東方向へ進行していたといいます。

琵琶湖から金華山沖まで、直線距離でなんと約1,580キロメートルも飛行したことになります。
これはこれで、ある意味すごい記録です。

問題は、琵琶湖から目的地であるアメリカ・ネバダ州サンドマウンテンまでは、なんと約8,700キロメートルも離れているということでした。


 

 

 

海上保安庁の判断と追跡打ち切り

⚠️ 実は:海上保安庁は鈴木氏を発見していました。でも、手を振ったので「飛行継続の意思あり」と判断し、追跡を打ち切ってしまったのです。

鈴木氏は救助機に向かって手を振り、SOS信号を停止。
機体から物を投下して再び高度を上げる様子も見られたため、保安庁は「飛行継続の意思あり」と判断し、午前11時30分ごろに追跡を打ち切りました。

ジェット気流には届かず、高度2,500メートル前後の寒冷下で漂う機体はやがて視界から消えました。
雲の中に消えた瞬間が、ファンタジー号が世界に姿を現した最後の瞬間となりました。

あれから33年。
風船おじさんは今、どこにいるのでしょうか?


33年後の現在〜行方不明の謎と考えられる結末

結論:風船おじさんこと鈴木嘉和氏は、33年経った今も行方不明のままです。遺体は発見されておらず、生存の可能性は極めて低いと考えられています。

遺体未発見とデマ情報

鈴木氏の遺体は、これまで一度も発見されていません。

「アラスカで遺体が発見された」という噂や、「1992年12月1日にハワイで遺体を発見して救助した」という情報も流れましたが、いずれもデマであることが確認されています。


専門家の見解

専門家は事前に「風船でアメリカになんて行けるわけがない」と指摘していました。
そして「風船がアメリカまで保つはずもないから、恐らく海に落ちて死んでいるだろう」という見解を示しています。

実際、金華山は太平洋と接している島なので、ここを越えたのが確かな以上、海に墜落して死亡したか、仮に生きていても海の真ん中で遭難して死亡した可能性が非常に高いと考えられます。


失踪宣告の確定

遺体が見つからなかったため、鈴木氏は戸籍上は生きていることになっていました。

家族は2年に1度の捜索願を更新していましたが、1999年の取材では「失踪宣告の手続をしようかと思うようになった」と語っています。

鈴木氏が消息を絶ってから7年余り経った2000年、妻からの鈴木氏に対する「失踪に関する届出の催促」が官報に公告されました。

そして2001年2月1日付で失踪宣告が確定しました。
これは日本の民法に基づき、失踪から7年が経過したことによる手続きです。


 

 

 

妻・石塚由紀子のその後

💔 実は:妻の由紀子さん、事件から24年後の2016年にポルトガル人と再婚しました。でもその翌年、癌で亡くなってしまったのです。

由紀子さんは鈴木氏の会社の共同経営者で、自宅が1億円の抵当に入っていたこともあり、残された借金を払い続けていました(2006年時点)。

鈴木氏が飛び立ってから、早朝に無言電話がかかってくることがあり、由紀子さんは生存する鈴木氏からの電話かと期待をかけていたそうです。
しかし、その電話も3年ほどで途絶えました。

2000年、失踪宣告が確定する前に、由紀子さんは著書『風船おじさんの調律』(未來社)を出版しました。
この本には鈴木氏の経歴や由紀子さんとの出会い、そして彼女自身の思いが綴られています。

由紀子さんは本の中で、鈴木氏について「暗い世界を、夢を見れる時代に変えるために飛び立った」とも語りました。
また、「彼にとって、風船は音楽なのだ」とも書いています。

2016年夏、失踪宣告確定から15年が経過し、由紀子さんはポルトガル人の男性と3度目の結婚をしました。
しかし2017年初めに胆管癌であることが判明し、同年4月に死去しました。


娘たちのその後

鈴木氏と由紀子さんはともに再婚同士で、由紀子さんには3人の娘(長女・英美子さん、次女・優美子さん、三女・富美子さん)がいました。

残された借金を返すために、由紀子さんは1994年に3人の娘と「ファミローザ・ハーモニー」というグループを結成し、国内外で演奏を行いました。

三女の富美子さんは2003年6月にヴァイオリン奏者「fumiko」としてデビュー。
2004年にはNHKのドラマ『火消し屋小町』で女優としてもデビューしています。

「ファミローザ・ハーモニー」は現在も活動を続けており、時として海外公演も行う活躍ぶりを見せているそうです。
現在は由紀子さんの代わりに、孫(英美子さんの長女)の彩香さんが加入しています。

また、2019年頃より英美子さんや富美子さんの息子たちが結成した「ファミローザ・ボーイズ」がコンサートにゲスト出演を開始しているとのことです。


 

 

 

文化的影響

風船おじさんの事件は、その後の日本文化にも影響を与えました。

1994年には筋肉少女帯が、アルバム『レティクル座妄想』収録の「飼い犬が手を噛むので」という曲で風船おじさんに言及しています。

1995年にはロックグループ・レピッシュがアルバム『ポルノポルノ』に「風船おじさん」と題する曲を収録。
ドン・キホーテ的生き方を敬意とともに肯定する内容となっています。

1997年4月には、劇作家の山崎哲の作・演出により、鈴木氏をモデルにした舞台『風船おじさん』が新宿のシアタートップスで上演されました。
蟹江敬三さんの一人芝居です。

2001年、野球選手のイチローさんが国民栄誉賞を辞退した際に、タレント・映画監督のビートたけしさんは「冒険家だった風船おじさんに国民栄誉賞をあげればいい」と語りました。

たけしさんは2009年、日本で空からオタマジャクシが降ってきたと騒動になった際にも、この騒動と風船おじさんをひっかけてギャグにしています。



この事件から見えてくるもの

風船おじさん事件から33年。
この事件は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。

📌 重要なポイント

  • 1992年11月23日、鈴木嘉和氏(当時52歳)が琵琶湖から風船で太平洋横断に挑み、行方不明となった
  • 動機は億単位の借金返済という切実なもので、「夢の冒険」ではなく「一発逆転」を狙ったものだった
  • 装備は不十分で、専門家からは「生還の可能性は極めて低い」と指摘されていた
  • 最後の言葉「心配しないでね」を残し、海上保安庁に発見されたが、その後雲間に消えた
  • 33年経った今も遺体は発見されておらず、真相は謎のまま
  • 残された家族は借金返済のために音楽活動を続け、妻は24年後に再婚したが翌年死去した

鈴木氏の挑戦は、無謀で無計画なものだったと言わざるを得ません。
しかし同時に、どんなに追い詰められても夢を追いかけようとした一人の人間の物語でもあります。

「風船で太平洋を渡る」という発想は、子どもの頃に誰もが一度は夢見たことかもしれません。
鈴木氏は、その夢を本気で実現しようとした─そして、空へ消えていきました。

33年目の今日、改めて空を見上げてみませんか?
もしかしたら、どこかで風船おじさんが、今も飛び続けているかもしれません。


 

 

 


よくある質問(FAQ)

Q1: 風船おじさんは結局どうなったのですか?

鈴木嘉和氏は1992年11月25日に海上保安庁によって最後に確認された後、雲間に消え、以降消息不明です。遺体は発見されておらず、2001年に失踪宣告が確定しています。専門家は海に墜落した可能性が高いと見ていますが、真相は謎のままです。

Q2: なぜ風船で太平洋を渡ろうとしたのですか?

表向きは「環境保全を訴えるため」でしたが、実際の動機は億単位の借金返済でした。事業の失敗で多額の借金を抱えた鈴木氏は、冒険成功によるメディア露出からビジネスチャンスを得て、一発逆転を狙ったと考えられています。

Q3: 最後の言葉は何でしたか?

1992年11月24日午前6時、家族への電話で「スバラシイ朝焼けだ!きれいだよ」「行けるところまで行くから、心配しないでね」と伝えたのが最後でした。この後、携帯電話は不通となりました。

Q4: 残された家族はどうなりましたか?

妻の石塚由紀子さんは借金返済のため、3人の娘と「ファミローザ・ハーモニー」という音楽グループを結成し演奏活動を続けました。2016年にポルトガル人と再婚しましたが、翌2017年に胆管癌で死去。娘たちは現在も音楽活動を継続しています。

Q5: 計画のどこに問題があったのですか?

致命的な欠陥は多数ありました。防寒装備が不十分(スキーウェアと毛布のみ)、高度8000m超のデスゾーンを目指すのに酸素ボンベを投棄、1992年当時の携帯電話では沖合で圏外、舵がなく操縦不能、安全な着陸方法がない、などです。専門家は「生還の可能性は極めて低い」と指摘していました。

Q6: どのくらい飛行したのですか?

琵琶湖から宮城県金華山沖東方約800kmまで、約1,580kmを飛行したことが確認されています。しかし目的地のアメリカ・ネバダ州までは約8,700km離れており、まだ7分の1程度しか進んでいませんでした。最終確認時の高度は約2,500mで、ジェット気流(7,000~12,000m)には到達していませんでした。


参考文献

  • 鈴木嘉和 - Wikipedia
  • 三輪茂雄 - Wikipedia
  • 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未來社、2000年
  • 弁護士JPニュース「『風船おじさん』事件から33年 "太平洋横断"めざして空へ…行方不明になった50代男性『無謀な夢』の結末」2025年11月23日
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