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グリーンウェル氏死去|神のお告げで7試合退団の真相と波瀾万丈の人生

阪神タイガースのユニフォームを着た日本人顔立ちの野球選手が、驚いた表情でバットを構えている様子を生成AIで作成したリアルなイメージ(背景は甲子園球場、日本語で「神のお告げ!?」の文字)]

阪神タイガースのユニフォームを着た日本人顔立ちの野球選手が、驚いた表情でバットを構えている様子を生成AIで作成したリアルなイメージ(背景は甲子園球場、日本語で「神のお告げ!?」の文字)]


⚡ 2025年10月10日、元ボストン・レッドソックスで阪神タイガースでもプレーしたマイク・グリーンウェル氏が62歳で亡くなりました

 

甲状腺がんとの闘病の末、ボストンのマサチューセッツ総合病院で息を引き取ったとのことです。

「神のお告げがあって野球を辞める」——この衝撃的な言葉を残して、阪神をわずか7試合で去っていったグリーンウェル氏。

「ダメ助っ人」として語り継がれることの多い彼ですが、実はレッドソックスの殿堂入り選手であり、MVP投票で2位になったこともある本物のスター選手でした。

そして引退後は、遊園地オーナー、NASCARレーサー、さらには政治家として活躍するという、波瀾万丈の人生を送っていたのです。


 

🏆 マイク・グリーンウェルとは?レッドソックスの「ミスター・レッドソックス」

マイク・グリーンウェルは1963年7月18日、アメリカ・ケンタッキー州で生まれました。

1982年のMLBドラフトでボストン・レッドソックスから指名され、1985年にメジャーデビュー。

1987年にはレフトのレギュラーに定着し、レッドソックス一筋で12年間プレーした選手として知られています。


どのくらいすごい選手だったのか?

グリーンウェルのMLB通算成績は、打率.303、1400安打、130本塁打、726打点という素晴らしいものでした。

特に1988年のシーズンは圧巻で、打率.325、22本塁打、119打点をマーク。

この年、アメリカンリーグのMVP投票で2位に入り、シルバースラッガー賞も受賞しています。

 

 

 

ちなみにこの年のMVP1位は、後にステロイド使用を認めたホセ・カンセコでした。

グリーンウェル自身も「彼のせいで自分がMVPになれなかった」と語っており、薬物を使っていなければMVPだった可能性が高い選手だったのです。


💡 実は「三振より四球が多い」稀有な打者

グリーンウェルにはすごい記録があります。MLB通算で、三振364回に対して四球460回——つまり、三振するより四球で歩く方が多かったのです。

これは選球眼が非常に優れていた証拠で、イチロー選手でさえ三振の方が多かったことを考えると、どれだけすごいことか分かります。

 

こうした実績から、グリーンウェルは「ミスター・レッドソックス」という愛称で親しまれ、2008年にはレッドソックス殿堂入りを果たしています。

では、なぜこんな実績のある選手が、阪神ではわずか7試合で退団することになったのでしょうか?


⚾ 阪神での「神のお告げ」事件—7試合で退団の真相

球団史上最高額での入団

1996年オフ、レッドソックスとの契約更新ができなくなったグリーンウェルは、日本プロ野球への挑戦を決めます。

当時、2年連続最下位に沈んでいた阪神タイガースは、主砲・清原和博の獲得に失敗。

そこで球団史上最高額となる推定3億6000万円(基本給3億円+出来高)という破格の条件で、グリーンウェルを獲得しました。

阪神は彼のために甲子園球場の電光掲示板まで改造(それまで6文字までしか表示できなかったのを7文字表示に)したほどの大物助っ人だったのです。


 

 

 

キャンプ中の一時帰国騒動

しかし、入団直後から問題が起こります。

1997年2月、キャンプが始まってすぐ、グリーンウェルは「サイドビジネス(遊園地・農場経営)の処理」を理由に一時帰国。

契約では事前にキャンプ離脱が認められていたのですが、戻ってくる予定日になっても帰ってきません。

代理人から「背中を痛めた。主治医から移動を禁じられた」という連絡が入り、結局、日本に戻ってきたのは4月30日のことでした。


ゴールデンウィークの奇跡—3連戦で大活躍

ようやく戻ってきたグリーンウェルのデビュー戦は、5月3日のゴールデンウィーク、満員の甲子園での広島戦でした。

この試合、グリーンウェルは期待に応えます。

5打数2安打2打点、最後の打席では試合を決める走者一掃の三塁打を放ったのです。

🌟 ちなみに

グリーンウェルの初安打は、後にメジャーリーグで活躍する黒田博樹投手から打ったものでした。

 

翌5月4日も満塁のチャンスで決勝打を含む3安打2打点、5日の試合でも適時打を放ち、ゴールデンウィーク3連戦で12打数5安打5打点という大活躍。

「さすがメジャーの大物!」と阪神ファンを沸かせました。


 

 

 

自打球骨折、そして「神のお告げ」

しかし、その後の中日戦で7打数無安打と不調に。

そして運命の5月10日、東京ドームでの巨人戦で、グリーンウェルは自打球を右足甲に当ててしまいます。

痛みを我慢して翌11日も出場しましたが、患部は靴も履けないほど腫れ上がり、病院での検査で第2中足骨の骨折が判明しました。

そして5月14日、急遽開かれた引退会見で、グリーンウェルは言いました。


「背中のケガに続いて、今度は足の骨折。

これは野球をやめろという神のお告げに違いない

 

この発言は大きな波紋を呼びましたが、会見では同時に「阪神ファンに申し訳ないけれど、最後にいい球団でプレーできて嬉しい」「野球は金のためじゃなく名誉のためにやっている」とも語っていたことは、あまり知られていません。


実は年俸返金を申し出ていた

さらに驚くべき事実があります。

グリーンウェルは引退を申し入れる際、契約金を全額返還することを申し出ていたのです。

しかし、当時の久万俊二郎オーナーが「正直な人だ」として返金を断ったため、実際には年俸の約7割にあたる約2億1500万円が支払われました。

 

 

 

2019年に日本のバラエティ番組に出演した際、グリーンウェル本人も「あんな形で引退して、日本のファンの方に申し訳ないと思っている」と語っています。

当時の吉田義男監督の「嵐のように来て、嵐のように去っていった」というコメントが、全てを象徴していました。

阪神での成績は、わずか7試合、26打数6安打、打率.231、0本塁打、5打点

単純計算すると、1安打あたり約6000万円という結果になってしまいました。

それでは、その後グリーンウェル氏はどんな人生を歩んだのでしょうか?


🎢 引退後の意外な成功—NASCAR、遊園地経営、政治家へ

「神のお告げ」で阪神を去ったグリーンウェルですが、その後の人生は意外なほど充実したものでした。


甲子園の20倍の遊園地オーナーに

引退後、グリーンウェルはフロリダ州に「マイク・グリーンウェルズ・ファミリー・ファンパーク」という甲子園球場の約20倍もの広大な遊園地を建設し、オーナーとなりました。

この遊園地は後に2億円以上で売却され、大きな成功を収めています。


NASCARレーサーとしても活躍

元々カーレースが大好きだったグリーンウェルは、2000年から北米で最も人気のあるストックカーレースに参戦。

2006年にはNASCARのクラフツマン・トラック・シリーズに2戦出場し、それぞれ26位と33位で完走しています。

 

 

 

「仕事が大好き、仕事中毒っぽいところがある」と自ら語るグリーンウェルは、レースを通じて「アドレナリンの流れを維持することができた」と話していました。


ゼネコン経営、そして政治家へ

さらにグリーンウェルは「Big League Builders」というゼネコン会社を立ち上げ、フロリダ州を拠点に事業を展開。

現在は2人の息子が経営に参画しています。

そして2022年、ロン・デサンティス・フロリダ州知事によりリー郡の郡委員に任命され、政治家としても活動を開始。

2024年の選挙では正式に再選を果たしています。

🎣 さらに驚きの事実

2023年には、プロの釣り師として「メジャー・リーグ・フィッシング」に出場する予定だったとも報じられています。

 

野球選手、カーレーサー、実業家、政治家——グリーンウェルの引退後の人生は、まさに波瀾万丈でした。

しかし、そんな多彩な活躍の裏で、病魔が彼の体を蝕んでいたのです。


 

 

 

💐 甲状腺がんとの闘病、そして62歳での死去

甲状腺髄様癌の公表

2025年8月、グリーンウェル氏は甲状腺髄様癌(medullary thyroid cancer)と診断されたことを公表しました。

甲状腺髄様癌は、甲状腺がんの中でも最も稀な型で、時として攻撃性が高いことが知られています。

グリーンウェル氏はリー郡委員としての職務を続けましたが、免疫系を守るため在宅勤務に切り替え、会議にはZoomや電話で参加していました。

本人は「リー郡の人々への奉仕に全力を尽くし続ける。経済成長、ハリケーン復興、そして財政的に責任あるバランスの取れた予算の実現に集中している」とコメントしていました。


わずか2ヶ月後の訃報

しかし、病状の進行は速く、診断からわずか約2ヶ月後の2025年10月9日午前10時30分、ボストンのマサチューセッツ総合病院でグリーンウェル氏は息を引き取りました。

妻のトレイシーさんがFacebookで夫の死を確認し、「今日、私の親友を失いました。マイクが天使になる時が来たのです」と投稿しました。

息子のボー・グリーンウェルさんも、「がんと長い一年間戦った後、父が亡くなりました。彼にとって多くの痛みと苦しみがあった一年でした。今、彼はようやく安らかに眠ることができます」とSNSに投稿しています。


 

 

 

レッドソックスとリー郡からの追悼

ボストン・レッドソックスは声明で、「レッドソックス殿堂入り選手、マイク・グリーンウェル氏の訃報に深く悲しんでいます。"ゲーター"(ワニ)の愛称で親しまれたグリーンウェル氏は、MLBキャリアのすべてをレッドソックス一筋で過ごし、フェンウェイパークとフォートマイヤーズの象徴的存在でした。彼はリー郡とソックス・ネーションのために多大な貢献をしてくれました」と追悼しました。

リー郡も「深い悲しみとともに、マイク・グリーンウェル委員の訃報をお知らせします。彼はリー郡で生まれ育ち、地域の人々と企業の強力な擁護者でした。コミュニティが直面する課題に対して、意義ある解決策を求め続けた彼を、私たちは忘れません」との声明を発表しています。


📝 まとめ:「神のお告げ」の裏にあった誠実な人生

グリーンウェル氏の人生で知っておくべきこと

  • 本物のスター選手だった:MLB通算打率.303、MVP投票2位、レッドソックス殿堂入りという実績を持つ名選手
  • 「神のお告げ」は誠実な決断だった:骨折を機に引退を決意し、年俸返金まで申し出ていた
  • 引退後も多彩な活躍:遊園地オーナー、NASCARレーサー、ゼネコン経営者、政治家として成功を収めた
  • 地域社会への貢献:リー郡委員として、最期まで地域のために働き続けた
  • わずか2ヶ月の闘病:2025年8月にがんを公表し、同年10月に62歳で死去

 

阪神での7試合は、確かに短すぎる滞在でした。

「ダメ助っ人」として語られることも多いでしょう。

しかし、グリーンウェル氏は年俸返金を申し出るほど誠実な人物であり、後年「申し訳ないことをした」と謝罪の言葉を述べていました。

そして何より、引退後の人生で見せた多彩な活躍と地域社会への貢献は、彼が単なる「失敗した助っ人」ではなく、一人の人間として豊かな人生を送っていたことを物語っています。

ゴールデンウィークの甲子園で、確かに彼は満員の観客を沸かせました。

その3日間の輝きと、「神のお告げ」という衝撃的な退団劇は、今も多くの野球ファンの記憶に残っています。

マイク・グリーンウェル氏のご冥福を、心よりお祈りいたします。


❓ よくある質問(FAQ)

Q1. グリーンウェル氏はどんな選手でしたか?

ボストン・レッドソックス一筋で12年間プレーし、MLB通算打率.303、1400安打、130本塁打、726打点という素晴らしい成績を残しました。1988年にはアメリカンリーグMVP投票で2位に入り、2008年にレッドソックス殿堂入りを果たした本物のスター選手でした。

Q2. なぜ阪神を7試合で退団したのですか?

1997年5月10日の巨人戦で自打球を右足甲に当てて第2中足骨を骨折。その後の引退会見で「背中のケガに続いて足の骨折。これは野球をやめろという神のお告げに違いない」と発言し、突然の引退を表明しました。本人は後に「申し訳ないことをした」と語っています。

Q3. 引退後はどんな活動をしていましたか?

甲子園球場の20倍もの広さの遊園地「マイク・グリーンウェルズ・ファミリー・ファンパーク」を経営し、後に2億円以上で売却。NASCARレーサーとしても活躍し、ゼネコン会社「Big League Builders」を設立。2022年からはフロリダ州リー郡の郡委員として政治家としても活動していました。

Q4. 死因は何でしたか?

2025年8月に甲状腺髄様癌(甲状腺がんの中でも稀な型)と診断されたことを公表。診断からわずか約2ヶ月後の2025年10月9日午前10時30分、ボストンのマサチューセッツ総合病院で62歳で亡くなりました。息子の証言では「長い一年間の闘病、多くの痛みと苦しみ」があったとされています。

 

 

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