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広島太郎さん死去|誰もが知る"街の伝説"はなぜ有名だったのか

📰 2025年9月、広島の"街の伝説"に別れの時
40年以上も広島市中心部で路上生活を続け、奇抜な格好で市民に親しまれた「広島太郎さん」が70代後半で静かに人生の幕を閉じました

2025年9月下旬、広島市中心部で40年以上も路上生活を続けていた「広島太郎さん」が、施設で静かに息を引き取りました。

地元では誰もが知る、あまりにも有名な存在。

中国新聞が報じた訃報がSNSで広がると、「え?亡くなったの?」「最近見かけないと思っていた」と驚きと悲しみの声があふれました。

広島市民にとって「生まれたときからそこにいた」と感じるほど、街の風景の一部だった広島太郎さん。

彼は一体どんな人で、なぜこれほどまでに多くの人の記憶に残る存在だったのでしょうか。

 

広島の本通り商店街のアーケード街で独特のファッションの人物が自転車を押して歩いている様子を生成AIで作成したリアルなイメージ

広島の本通り商店街のアーケード街で独特のファッションの人物が自転車を押して歩いている様子を生成AIで作成したリアルなイメージ



 

 

 

 

🏙️ 広島太郎さんとは?広島市民なら誰もが知る"街の伝説"

広島太郎さんは、広島市中心部で路上生活をしていた男性です。

2025年9月下旬に70代後半で亡くなったことが、中国新聞の報道で明らかになりました。

💡 ただの路上生活者ではありません

広島市民の間では「県知事や市長の名前は知らなくても、太郎さんを知らない人間はいない」とまで言われるほど、圧倒的な知名度を誇っていました。

その最大の特徴は、全身にぬいぐるみや時計を身につけた奇抜な格好。

マントをまとい、自転車にも人形を満載した姿で、本通りや八丁堀を歩く姿は、一度見たら忘れられないインパクトでした。

路上生活の期間は40年以上

親の世代が子供の頃から見かけていたという人も多く、まさに「生まれたときからそこにいる」存在だったのです。

Wikipediaに記事があるほどの有名人で、2010年には広島市現代美術館の展覧会でメインビジュアルに採用されたこともあります。

✨ 実は...
ただの路上生活者ではなく、広島という街の"顔"として認められていた人物だったんです。

では、そんな広島太郎さんは、具体的にどこで生活していたのでしょうか?

 

 

 

📍 広島太郎さんはどこにいた?40年間の"聖地"

広島太郎さんが主に姿を見せていたのは、広島市中心部の繁華街。

特に以下のエリアが「聖地」として知られていました。

🏬 本通り商店街

広島最大のアーケード商店街。

ここで最も頻繁に目撃されていました。

商店街のど真ん中に、まるでエアポケットのようにぽっかり空いた場所に座り込んでいることも多かったそうです。

🌆 八丁堀

広島市の中心的な繁華街。

2022年頃までは八丁堀交差点付近でよく見かけられ、金座街入口や酒商山田八丁堀店前などに腰を下ろしていました。

🏙️ 紙屋町・流川

紙屋町の周辺や、夜の歓楽街・流川でも目撃されています。

2024年1月には流川のえびす通りで最後の目撃情報がありました。

🚲 移動手段は自転車

ただし、その自転車も人形や時計でいっぱいで、押しながらゆっくりと街を歩いていました。

広島市民の間では「今日は本通りにいた」「八丁堀で見かけた」という情報が、まるで天気予報のように共有されていたんです。

それにしても、なぜあんなに独特な格好をしていたのでしょうか?次のセクションで、その謎に迫ります。

 

 

 

👔 なぜ「広島太郎」と呼ばれた?奇抜すぎる格好の秘密

広島太郎さんという名前は、本名ではなく通称です。

本名は公表されていません。

その名前の由来となったのが、あまりにも強烈な見た目でした。

🎨 全身に装着されたアイテム

  • 無数のぬいぐるみ
  • 複数の掛け時計
  • 汚れた服の上に羽織ったマント
  • ビニールシートや布

自転車にも人形をぎっしり載せて、車体からこぼれそうなほど。

さらに、過去には猫を2匹連れていたこともあったといいます。

なぜこんな格好をしていたのか?

その理由は、実は誰も知りません。

本人が語ったこともほとんどなく、謎のまま。

ただ、この独特すぎるスタイルが、逆に広島市民に強烈な印象を残したのです。

ちなみに、昔は「本通り太郎」と呼ばれていた時期もあったようです。

1978年の中国新聞の記事では、本通りで暮らす男性として紹介されており、当時から地元では知られた存在でした。

💬 写真家・都築響一さんの評価

「僕が知る世界でいちばんファッショナブルなホームレス」

奇抜な格好は、広島太郎さんの"アイデンティティ"そのものだったんです。

この独特な姿で、広島太郎さんはいつから街に姿を現したのでしょうか?その歴史を振り返ってみましょう。

 

 

 

📅 広島太郎さんの歴史|1978年から続いた路上生活

広島太郎さんの人生を、確認できる事実から振り返ってみましょう。

📌 1947年

広島市安佐南区で生まれる。

Wikipediaによれば、父親は鉄工関係の仕事に従事していたとされています。

📌 1970年代後半

路上生活を始めたと考えられています。

正確な時期は不明ですが、40年以上の路上生活という記録から逆算すると、この頃から街に姿を現し始めたようです。

📌 1978年3月25日

中国新聞の夕刊で紹介される。

記事では「わしの生活は自由と横着がテーマ」「他人は他人、自分は自分」という人生観を語っていました。

📌 2001年2月1日

深夜、息苦しさを訴えて救急車を呼ぶ。

しかし9つの病院に受け入れを断られるという事態が発生。

最終的に広島市中区の病院が受け入れ、重症の肺炎と診断されてICU(集中治療室)に収容されました。

📌 2010年5月〜7月

広島市現代美術館の展覧会『HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン』で、メインビジュアルに採用される。

太郎さんの巨大なバナーが商店街に吊され、大きな話題となりました。

📌 2013年11月1日

NHK『ドキュメント72時間』で「"広島太郎"を探して」が放送される。

全国的にも知られる存在となりました。

📌 2024年1月9日

流川のえびす通りで、頭に怪我をした状態で目撃される。

元気がない様子で、心配する声が上がっていました。

これが最後の確実な目撃情報となります。

📌 2025年9月下旬

施設に入所して闘病していましたが、静かに息を引き取りました。

実に50年近くにわたって、広島の街と共に生きた人生でした

これだけ長く有名だった広島太郎さんには、様々な都市伝説が語り継がれています。その真相とは?

 

 

 

🔮 語り継がれる都市伝説|「実はお金持ち」説の真相

広島太郎さんには、数多くの都市伝説がつきまといました。

ただし、これらはあくまで「噂」であり、確証はありません。

⚠️ 重要な前提

以下はすべて「確証のない噂」として語られているものです。

真偽は不明であることを前提にお読みください。

💰 テレビ出演料の噂

本人が時々、「テレビ出演料1億〜3億」「フジテレビへの出演料金は時給180万」と書いた紙を貼っていたことがあったそうです。

ただ、これが事実かどうかは不明。

冗談や誇張の可能性もあります。

🏢 マツダ関連の御曹司説

地元では「マツダ関連の下請け会社の御曹司だった」という噂が根強くありました。

実際、Wikipediaには「広島大学政経学部経済学科を卒業後、東洋工業(現マツダ)に就職した」という記述もあります。

ただし、別の資料では山口大学経済学部との情報もあり、学歴については矛盾があります。

💔 失恋が路上生活の理由?

「社内恋愛で失恋し、その女性が同僚と結婚。披露宴でスピーチまで頼まれたショックで退職した」という説が語られています。

しかし、これも確認できない情報です。

🎰 競輪・競馬・競艇が好き?

もらったチップや差し入れのお金を、競輪・競馬・競艇につぎ込んでいたという話もあります。

ただ、これも噂の域を出ません。

📸 写真撮影・宿題代行のサービス?

「1000円で写真撮影に応じてくれた」「500円で子供の宿題をやってくれた」という都市伝説も。

宿題代行については「実際にやってもらった」という証言もあるようですが、真偽は不明です。

🍀 目撃するといいことがある

広島市民の間では「広島太郎さんを見かけるといいことがある」というジンクスまで生まれていました。

🤔 どれが本当で、どれが作り話なのか

真相は、本人と共に謎のままです。ただ、これだけ多くの都市伝説が生まれること自体が、広島太郎さんの存在感の大きさを物語っています。

謎多き広島太郎さんですが、市民との関係は温かいものでした。心に残るエピソードを見ていきましょう。

 

 

 

❤️ 市民に愛された広島太郎さん|伝説のエピソード集

広島太郎さんと市民との関係を示す、心温まるエピソードがいくつも残されています。

🚗 誰もクラクションを鳴らさない渋滞

最も有名なのが、このエピソード。

自転車に人形や時計を満載した太郎さんが、大通りをゆっくり走っている。

後ろには自動車がびっしり渋滞。

でも、誰一人としてクラクションを鳴らさない。

「そう、広島太郎のお通りだ!」

これは実際にあった光景として、多くの広島市民が語り継いでいます。

急いでいても、みんなが静かに待っていたんです。

🙏 不良も「馬鹿にしちゃいけない」

ヤフコメには、こんな証言もありました。

「不良っぽい兄ちゃんも、馬鹿にしちゃいけないと言って庇ってた。皆攻撃しないよう牽制してるのはいい文化」

若者たちも、太郎さんを街の一部として大切に思っていたんです。

🚑 2001年の救急搬送事件

これは温かいエピソードではありませんが、重要な出来事です。

深夜、息苦しさを訴えた太郎さんを救急車が運ぼうとしましたが、9つの病院に受け入れを断られました

理由は、路上生活者であることが主な要因だったと考えられます。

しかし最終的に、広島市中区の病院が受け入れを決断。

重症の肺炎と診断され、ICU(集中治療室)で手厚い治療を受けました。

 

 

 

👁️ 声をかける人はほとんどいない、でも見守っている

興味深いのは、市民と太郎さんの「距離感」です。

写真家の都築響一さんは、こう表現しています

「だれもが『そこにいる』と知っていて、だれもが『そこにいない』ように通り過ぎていく。だれよりも存在感にあふれていて、だれよりも透明」

直接的に関わることは少ない。

でも、みんなが意識している。

そんな不思議な関係でした。

食べ物を差し入れする人、カラオケに誘う人もいたそうです。

太郎さんは「高校三年生」(舟木一夫)などを歌うのが好きだったとか。

🌟 「生まれたときからそこにいた」

30代以下の広島市民にとって、広島太郎さんは「生まれたときからそこにある(いる)」存在でした。

子供の頃から見かけていた。親も見かけていた。おじいちゃんも知っている。

それほど長く、広島の街と共にあった人だったんです。

✨ 実は、市民は一定の距離を保ちつつも、ずっと見守り続けていたんですね

そんな広島太郎さんの最期は、どのようなものだったのでしょうか。

 

 

 

🕊️ 広島太郎さんの最期|施設での闘病と静かな別れ

近年、広島太郎さんの姿を見かける機会は減っていました。

📆 2022年頃まで

八丁堀交差点付近では、まだ姿が確認されていました。

ただ、それまでのように移動することは少なくなり、金座街入口や酒商山田八丁堀店前に長時間座り込むことが多くなっていたといいます。

手に持ったビニールや紙を弄っているだけで、以前のような活気は感じられなくなっていました。

📆 2024年1月9日の最終目撃

流川のえびす通りで、頭に怪我をした状態で目撃されました。

数時間話をした人によると、「年始に頭に怪我をした」と話しており、かなり元気のない状態だったそうです。

この後、太郎さんの姿を街で見かけた人はいなくなりました。

🏥 施設への入所

その後、太郎さんは施設に入所。

闘病生活を送っていたことが、後に明らかになります。

40年以上続いた路上生活に、静かに終わりが訪れていたのです。

💐 2025年9月下旬、死去

そして2025年9月下旬、広島太郎さんは70代後半で静かに息を引き取りました。

中国新聞が10月23日に報道すると、SNSには追悼の声があふれました。

💬 市民の声

「え? 太郎さんか…亡くなったの??」

「確かに最近見かけんようになったなーって思いよったわ」

「広島の街で彼を見かけない日々が寂しいよ〜。心からご冥福をお祈りします」

「施設に入られてたのね。なら最期は温かいお布団で眠る生活だったんだ。お疲れさまでした」

路上で過ごした長い年月の後、最期は温かい環境で過ごすことができた。

それが、せめてもの救いだったのかもしれません。

🏙️ 街に生まれた空白

広島太郎さんが亡くなったことは、ある意味で「一つの時代の終わり」を感じさせます。

本通りには、少しだけ空白が生まれました。

でも、きっと多くの人の心の中で、広島太郎さんは今も本通りを歩き続けているのでしょう。

 

 

 


📝 まとめ|広島太郎さんという存在が教えてくれたこと

広島太郎さんの人生と、その死から見えてくるものをまとめます。

✅ 広島太郎さんとは

  • 広島市中心部で40年以上路上生活をしていた男性
  • ぬいぐるみや時計を身につけた奇抜な格好で知られる
  • 広島市民なら誰もが知る、街の"伝説的存在"
  • 2025年9月下旬、70代後半で施設にて死去

✅ 市民との特別な関係

  • 誰もクラクションを鳴らさなかった渋滞のエピソード
  • 「そこにいる」のに「そこにいない」ように通り過ぎる、不思議な距離感
  • 一定の距離を保ちつつ、みんなが見守っていた

✅ 残された謎と都市伝説

  • 本名も路上生活の理由も、確かなことは分かっていない
  • 「マツダの御曹司」「失恋が原因」など様々な説があるが、確証はない
  • 多くの都市伝説が生まれたこと自体が、その存在感の大きさを示している

✅ 広島という街の寛容さ

  • 40年以上もの間、一人の路上生活者が街の"名物"として受け入れられた
  • 攻撃したり排除しようとするのではなく、「そこにいること」を許容した
  • これは、広島という街の文化そのものだったのかもしれない

広島太郎さんは、路上生活者というレッテルを超えて、広島という街の「記憶」そのものになった人でした。

誰も名前を知らない。本当の理由も分からない。

でも、誰もがその存在を知っていて、誰もが少しずつ見守っていた。

「あの人がいる」ことが当たり前だった広島の街に、今は少しだけ空白が生まれました。

でも、きっと多くの人の心の中で、広島太郎さんは今も本通りを歩き続けているのでしょう。

🙏 長い間、お疲れ様でした
心からご冥福をお祈りします

 

❓ よくある質問(FAQ)

Q1. 広島太郎さんとは誰ですか?

広島市中心部で40年以上路上生活を続け、奇抜な格好で市民に親しまれた男性です。2025年9月下旬に70代後半で亡くなりました。

Q2. なぜ広島太郎さんはそれほど有名だったのですか?

全身にぬいぐるみや時計を身につけた独特の格好と、40年以上という長期間の路上生活により、広島市民なら誰もが知る存在となりました。広島市現代美術館の展覧会でメインビジュアルにも採用されました。

Q3. 広島太郎さんはどこで生活していましたか?

主に広島市中心部の本通り商店街、八丁堀、紙屋町、流川などで目撃されていました。自転車で移動しており、車体には人形が満載されていました。

Q4. 広島太郎さんの本名や路上生活の理由は分かっていますか?

本名は公表されておらず、路上生活の理由も確かなことは分かっていません。マツダ関連企業の御曹司説や失恋説など様々な都市伝説がありますが、いずれも確証はありません。

Q5. 広島太郎さんのエピソードで有名なものは?

自転車で渋滞を作っても誰もクラクションを鳴らさなかったエピソードが最も有名です。市民が温かく見守っていた関係性を象徴しています。また、2001年に救急搬送の際に9つの病院に断られた事件も記録されています。

Q6. 広島太郎さんの最期はどうでしたか?

2024年1月に頭に怪我をした状態で最後の目撃があり、その後施設に入所して闘病。2025年9月下旬に施設で静かに息を引き取りました。最期は温かい環境で過ごすことができたそうです。

Q7. 広島太郎さんはいつから路上生活を始めたのですか?

1970年代後半から路上生活を始めたと考えられています。1978年には中国新聞で「本通り太郎」として紹介されており、当時から地元では知られた存在でした。

Q8. 広島太郎さんと市民の関係はどのようなものでしたか?

直接的に関わることは少なかったものの、みんなが意識して見守っていました。写真家の都築響一さんは「だれもが『そこにいる』と知っていて、だれもが『そこにいない』ように通り過ぎていく」と表現しています。

 

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