2025年10月25日、映画史に残る美しさで世界を魅了した俳優が、70年の生涯を閉じました。
ビョルン・アンドレセンさん。
1971年の映画「ベニスに死す」で15歳の時に演じた美少年役で、「世界で一番美しい少年」と呼ばれた伝説的な俳優です。
しかし、その美しさの裏には、想像を絶するほどの過酷な人生がありました。
母の死、大人たちからの搾取、息子の死…。
それでも彼は、晩年まで俳優として生き続けました。

📋 この記事でわかること
⚫ ビョルン・アンドレセンさん、70歳で死去
THR Japanの報道によると、ビョルン・アンドレセンさんは2025年10月25日に亡くなりました。
スウェーデンの首都ストックホルムで、70歳でした。
ビョルンさんは1955年1月26日生まれ。
1971年、わずか15歳の時に巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」で美少年タッジオ役を演じました。
これにより一躍世界的な注目を浴びました。
その美しさから「世界で一番美しい少年」と称され、日本でも熱狂的なファンを生み出しました。
実は、70歳まで俳優として活動を続けていたビョルンさん。
2019年公開の「ミッドサマー」にも出演するなど、晩年まで表現者として生きていました。
❓ 死因は公表されているのか?現時点での情報
多くの人が気になるのは、ビョルンさんの死因ではないでしょうか。
⚠️ 重要な情報
THR Japanの報道によると、死因は現時点で公表されていません。
ビョルンさんの半生を描いたドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」(2021年)の共同監督クリスティアン・ペトリ氏が死去を明かしました。
スウェーデン紙「ダーゲンス・ニュヘテル」に対して発表しています。
また、ビョルンさんの娘ロビン・ロマンさんからの連絡があったという報道もあります。
今後、新しい情報が公表される可能性もありますが、現時点では死因の詳細は明らかになっていません。
✨ 「世界で一番美しい少年」と呼ばれた理由
では、なぜビョルン・アンドレセンは「世界で一番美しい少年」と呼ばれたのでしょうか。
それは、彼が15歳の時に受けたオーディションから始まります。
1970年、イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督は映画「ベニスに死す」の主人公となる美少年を探していました。
ヴィスコンティはヨーロッパ中を旅し、金髪碧眼の少年を探し続けていました。
そして、スウェーデンのストックホルムでビョルンと出会います。
オーディションの様子は、今考えると衝撃的です。
ヴィスコンティはビョルンに下着1枚になるよう指示し、撮影しました。
実は、この時点で既に異常な状況が始まっていたのです。
しかし、ヴィスコンティはビョルンの美しさに圧倒されました。
「ギリシャ彫刻のような美しさ」—そう表現されたビョルンの容姿は、まさに原作が求めていた「純粋な美の具現」そのものでした。
1971年のカンヌ国際映画祭で、ヴィスコンティは記者会見でビョルンを「世界で一番美しい少年」と絶賛。
この言葉が、その後の彼の人生を大きく左右することになります。
🎬 映画「ベニスに死す」とは何か
では、ビョルンを有名にした映画「ベニスに死す」とは、どんな作品なのでしょうか。
「ベニスに死す」は1971年に公開された映画で、ノーベル賞作家トーマス・マンの同名小説を原作としています。
物語の舞台は1911年のイタリア・ベニス(ヴェネチア)です。
心臓の病気で療養に訪れたドイツの老作曲家アッシェンバッハが、ホテルで出会ったポーランド貴族の美少年タッジオに心を奪されます。
老作曲家は、タッジオの姿を遠くから見つめるだけで幸せを感じました。
言葉を交わすこともできないまま、彼を追いかけ続けます。
やがてベニスにコレラが蔓延し…という物語です。
映画全体に流れるのは、作曲家グスタフ・マーラーの「交響曲第5番」。
この荘厳な音楽と、ビョルンの美しさが組み合わさり、映画は世界中で高く評価されました。
🏆 映画の評価
カンヌ国際映画祭で25周年記念賞を受賞。
イギリスのアカデミー賞では撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、音響賞を獲得しました。
実は、原作者トーマス・マンも、1911年に実際にベニスで11歳のポーランド貴族の美少年に出会っていました。
その体験を小説にしていたのです。つまり、この物語には実話の要素もありました。
💔 15歳で経験した過酷な現実
しかし、「世界で一番美しい少年」という称号は、ビョルンに幸せをもたらしませんでした。
むしろ、それは地獄の始まりでした。
👪 母の自殺と祖母のもとでの生活
ビョルンの人生は、幼い頃から過酷でした。
父親は不明。母はビョルンを祖母に預け、ノルウェー人男性と結婚しますが4年で離婚しました。
うつ病を患った母は、時々ビョルンのもとに戻ってきては、また突然姿を消す…という不安定な生活を送っていました。
そして、ビョルンが10歳の時、最悪の出来事が起こります。
母が自殺したのです。
「僕の人生に両親がいたことはありません」—後にビョルンが語った言葉が、その痛みを物語っています。
💰 祖母による子役化と搾取
祖母は美容師でしたが、生活が苦しいと感じていました。
そこで、ビョルンの美貌に目をつけます。孫を子役として働かせ、お金を稼ごうと考えたのです。
1969年、14歳の時に映画「純愛日記」で端役デビュー。
そして翌年、祖母の勧めでヴィスコンティのオーディションを受けることになります。
⚠️ ヴィスコンティと大人たちからの性的搾取
実は、「ベニスに死す」の撮影後、さらに悲劇が待っていました。
2021年のドキュメンタリー「世界で一番美しい少年」で、ビョルンは衝撃的な告白をしています。
カンヌ映画祭でビョルンが16歳になった時、ヴィスコンティは突然態度を変えました。
「1歳年を取ってどれだけ美貌が失われたか」「16歳になった彼にどれだけ価値がないか」と言い放ったのです。
しかもビョルンが理解できないフランス語で。
その後、ヴィスコンティはビョルンをパリの富裕層ゲイ・コミュニティに放り込みます。
そこで、ビョルンは大人たちから性的に搾取されました。
💊 日本での過酷スケジュールと薬物投与
祖母と結託したエージェントは、次にビョルンを日本へ連れて行きます。
日本でCMやレコード発売などの過密スケジュールをこなすため、薬物を飲ませることもあったと言われています。
わずか16歳の少年が、大人たちの金儲けの道具として使われていたのです。
👶 息子の死とうつ病
28歳の時、ビョルンは詩人のスザンナ・ローマンと結婚し、長男が誕生します。
やっと幸せが訪れたかに見えました。
しかし、息子が生後9ヶ月の時、乳幼児突然死症候群で亡くなってしまいます。
この出来事でビョルンはうつ病を発症し、アルコール依存にも陥りました。
その後長女を授かりますが、妻とは離婚。
🏃 デンマークへの逃亡
2003年、さらなる悲劇が襲います。
ビョルンが肖像権を持っている「ベニスに死す」のタッジオ役の写真が無断使用されたのです。
ジャーメイン・グリアの著書「ビューティフル・ボーイ」の表紙に。
性的搾取のトラウマを抱えていたビョルンにとって、これは耐え難い出来事でした。
すべてから逃げるため、ビョルンはデンマークに逃亡します。
「世界で一番美しい少年」という代名詞は、何十年経っても彼を苦しめ続けたのです。
🇯🇵 日本での熱狂的人気と「ベルばら」との関係
ビョルンの人生において、日本は特別な場所でした。
🎌 日本での爆発的人気
1971年の「ベニスに死す」公開後、日本でビョルンブームが巻き起こります。
映画のキャンペーンで初来日した際、ファンの熱狂ぶりは凄まじいものでした。
来日のたびに大騒ぎとなり、ファンに髪の毛を切られるという出来事もあったほどです。
明治製菓「エクセル」のCM撮影で再来日した際も、日本中が沸きました。
🌹 「ベルサイユのばら」オスカルのモデル
💡 意外な事実
実は、日本の少女漫画史に残る名作「ベルサイユのばら」のオスカルは、ビョルンがモデルだったのです。
漫画家の池田理代子さんは、ビョルンの容姿に影響を受け、オスカルのキャラクターを生み出しました。
2021年のドキュメンタリー撮影で、ビョルンは約50年ぶりに池田さんと対面しました。
池田さんは初対面にもかかわらず「ベルサイユのばらのオスカルのモデルはあなたです」と語りました。
そして、スケッチブックにビョルンの絵を描きました。
ビョルン自身は、自分が日本の漫画のモデルになっていたことに驚いたそうです。
🤝 日本との深い絆
ドキュメンタリーでは、当時のマネージャーのマックス・セキさん、音楽プロデューサーの酒井政利さんとも再会しています。
約50年ぶりの再会で、マネージャーは「ビョルン」と叫んで親しげに語りかけました。
日本は、ビョルンの人生にとって欠かせない存在だったのです。
過酷な仕事の場であると同時に、彼を最も熱狂的に愛した国でもありました。
🎭 晩年まで続けた俳優活動—「それでも生きる」
壮絶な人生を送ったビョルン・アンドレセン。
しかし、彼は最後まで表現者であり続けました。
🔄 7年間の失踪と復帰
「ベニスに死す」の後、ビョルンは10代の終わりから7年間、姿を消します。
死亡説や失踪説が流れましたが、ビョルンは生きていました。
ただし、本人が語るには「心は死んでいた」状態でした。
26歳の頃、脇役から俳優活動を再開。舞台などにも挑戦し、その演技力も認められるようになっていきます。
🎥 30本以上の作品に出演
ビョルンはこれまでに30本以上の映画・ドラマに出演しています。
2016年には「The Lost One」でホームレスの男性役を演じました。
トラウマを抱えながら生きる彼にとって、この役には特別な意味があったのかもしれません。
2019年には、アリ・アスター監督のホラー映画「ミッドサマー」にも出演。63歳の時です。
晩年まで俳優として活動を続け、表現者としての人生を全うしました。
📽️ ドキュメンタリーで語った真実
2021年のサンダンス映画祭で、ビョルンの人生を描いたドキュメンタリー「世界で一番美しい少年」が発表されました。
この作品でビョルンは、初めて自分の過去を詳しく語ります。
ヴィスコンティや祖母、大人たちに性的搾取されてきたことを告発したのです。
ドキュメンタリーの監督クリスティアン・ペトリは、「ビョルンはとても勇敢な人だった」と追悼の言葉を寄せています。
ビョルンは、人間不信に陥っていたため、撮影承諾までに3年を要しました。
それでも最終的に語ることを選んだのは、同じような経験をする若者たちへの警鐘を鳴らすためだったのかもしれません。
🎵 音楽教師としての顔
俳優業だけでなく、ビョルンは音楽教師としても働いていた時期があります。
元々、ストックホルムの音楽学校でクラシックを学んでいました。
13歳の頃から友人とバンドを組んでいたビョルン。
音楽は彼にとって、俳優業と同じくらい大切なものだったのです。
娘のロビンさんも現在、音楽教師として働いているとのことです。
📝 まとめ:美しさの代償と、それでも生きた人生
ビョルン・アンドレセンさんの人生は、「美しさ」が必ずしも幸福をもたらすわけではないことを教えてくれます。
15歳で世界的な注目を浴び、「世界で一番美しい少年」と呼ばれた彼は、その美しさゆえに大人たちから搾取されました。
深いトラウマを抱えることになりました。
✅ ビョルン・アンドレセンさんの人生—覚えておきたい5つのこと
- 1971年、15歳で「ベニスに死す」に出演し、「世界で一番美しい少年」と称された
- 母の自殺(10歳)、性的搾取、息子の死など、壮絶な人生を送った
- 日本で熱狂的な人気を誇り、「ベルばらのオスカル」のモデルになった
- 2021年のドキュメンタリーで、初めて過去のトラウマを告白した
- トラウマを抱えながらも、70歳まで俳優として表現活動を続けた
しかし、それでも彼は生き続け、晩年まで俳優として表現活動を続けました。
2021年のドキュメンタリーで自らの過去を語る勇気を持ちました。
同じような経験をする若者たちへの警鐘を鳴らしました。
彼の死は、映画史にとって大きな損失です。
しかし、彼が残した作品と、トラウマを乗り越えて生きた姿は、これからも多くの人々に影響を与え続けるでしょう。
ビョルン・アンドレセンさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。
❓ よくある質問(FAQ)
Q1. ビョルン・アンドレセンさんはいつ亡くなりましたか?
2025年10月25日、スウェーデンの首都ストックホルムで70歳で亡くなりました。
死因は現時点で公表されていません。
Q2. なぜ「世界で一番美しい少年」と呼ばれたのですか?
1971年の映画「ベニスに死す」で15歳の時に美少年タッジオ役を演じました。
その「ギリシャ彫刻のような美しさ」が世界中で評価されました。カンヌ映画祭でルキノ・ヴィスコンティ監督が「世界で一番美しい少年」と絶賛したことから、この称号で呼ばれるようになりました。
Q3. ベルサイユのばらのオスカルとどんな関係があるのですか?
漫画家の池田理代子さんがビョルンの容姿に影響を受けました。
「ベルサイユのばら」のオスカルのキャラクターを生み出しました。池田さん自身が「オスカルのモデルはビョルン」と公言しています。
Q4. ビョルンさんはどのような過酷な経験をしたのですか?
10歳の時に母が自殺し、15歳でデビュー後は大人たちから性的搾取を受けました。
さらに、息子が生後9ヶ月で乳幼児突然死症候群で亡くなるなど、壮絶な人生を送りました。2021年のドキュメンタリーで初めて自身のトラウマを告白しています。
Q5. 晩年はどのような活動をしていましたか?
30本以上の映画・ドラマに出演し、2019年には「ミッドサマー」にも出演しました。
また、音楽教師として働いていた時期もあり、70歳まで表現者として活動を続けていました。
📚 参考文献リスト
- 俳優ビョルン・アンドレセン、70歳で死去 - THR Japan
- ビョルン・アンドレセン - Wikipedia
- ベニスに死す (映画) - Wikipedia
- 「世界一の美少年」が見た数々の地獄 - 25ans
- 「ベニスに死す」の「世界で一番美しい少年」 - ねことんぼプロムナード